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2018年11月30日

神戸日独協会との60年の歩み

ドイツ文化サロン第17回『私と神戸日独協会』感想
会員 枡田 節子

講師: 田中 美津子さん(神戸日独協会元理事)

日独協会そしてドイツ語と共に60年以上歩んでこられた田中美津子さんは、「若い頃のことを話すと元気が出る。家族は『チョー昔のこと』と言うが、皆さんは昔のことは新しく聞くこととして聞いてください」とお話しを始められた。田中さんは大阪大学独文科を卒業後、昭和29年神戸大学文学部教授の加藤一郎先生を中心に旧神戸国際会館内に神戸日独協会(初代会長は原口忠次郎元市長)が再建された直後に、協会秘書としてゼロからのスタートをされた。仕事は書籍や新聞の収集や切り抜きから始まり、ドイツ総領事館(阪神震災前まで神戸国際会館内)から寄贈されたドイツ書籍やレコードの整理、当時では珍しい寄贈されたレコードのコンサートやドイツ語講座の開催事務。当時はドイツ文学学習者やドイツ語でカルテを記する医学部学生そして音楽大学生等々ドイツ語を学びたい人たちが多く、各講座の定員は25名で毎学期申し込み初日に事務室前の廊下には多数の希望者が並び32名まで受け付け、ある時には33番目の女子学生が自前の椅子を持ち込むので講聴したいと切望されたこともあったとのこと。加藤先生は一言で言うなら「どなたとでもすぐに仲良くなれる方」なので、その広い交際範囲のためか、受講者にはパン屋さん、中学生、和服のご婦人等々がいらしたり、神戸日独協会(ドイツ図書室)にはおでん屋のおかみさんやウエイトレス達もよく出入りされていたとのこと。昭和4年京都帝国大学卒業後から昭和40年まで神戸大学に在職されたが、戦争中に出征する学生を見送り、最後の一人の学生が大学に戻ってくるまでは絶対に転勤しないと心に決めて神戸大学でずっと学生が生還されるのを待っておられたとのこと。このお話しをお聞きするだけで、加藤先生のお優しいお人柄が思い起こされる。田中さんのお話に加え、ご持参された当時の沢山の写真をも拝見しながら、加藤先生のご晩年のみしか知らない私にも加藤先生と再建直後の日独協会のご様子が彷彿と想像できました。

美津子さんは2年間の協会秘書をされた後、結婚、御主人の転勤、子育てをされ、昭和40年に西宮に戻られ義理のご両親と同居され、37歳で神戸日独協会に再び戻られました。新聞での「ミノルタ・ドイツ語セクレタリー」の募集記事に応募され、嘱託としてミノルタの企画管理部でドイツ・ライカ社とのレターやファックスのやり取り、ドイツからの代表団を迎えての会議や契約・観光案内、商品の受け入れ検査やクレーム処理等あらゆる仕事をされたとのこと。当時はお手本も教えてくれる人もなく、ライカ社から送られてくる資料が良いテキストとなり、在職22年間にご自分で実地体験して作成された分厚い「ドイツ語の熟語や言い回し表現」や「カメラレンズの傷の種類(曇りや欠点等)の表現」等もご披露していただいた。ドイツ語の理工系の文章は、英語や文学文等と違って、主語・目的語も明確で論理的にきちんと伝えることができるので、興味深く仕事ができたとのこと。その間に神戸日独協会の会計担当そして理事もされ、協会の「30年史」そして「60年史」編纂にも関わられた。平成7年には阪神大震災で神戸国際会館が全壊し、協会内の資料や図書等の持出のため、黒崎会長や枡田先生と共に会館裏口で会館側から「何があっても自己責任」と言われヘルメットをかぶり館内に入り、期末決算書や記念の品や寄せ書き等を取り出した。その後協会が平成10年に国際会館に再入居し、NPO法人となり会計も普通の会計と異なって来たので、平成19年に会計担当・理事を辞められました。その後はオットー・レファートさんの「神戸のドイツ人」の日本語訳をして上梓されました。

これまでご自分のやりたいことを一生懸命やってこられたのは、第一に御主人や義理のご両親や子どもたちご家族の理解と協力があってのことと感謝をし、特にご主人が快く美津子さんを外の社会に出してくださったとのこと。神戸日独協会とは、「会員一人一人の協会」であり、「私のドイツ」「私の日独協会」であって、そうあってほしいとお話しを締めくくられました。今回のサロンには、古くからの会員の方々をはじめ懐かしいお人たちが参加して下さりましたので、参加者一同で記念撮影をして終わりました。田中美津子さんには、神戸日独協会会員の先輩として協会の活動をいついつまでも見守っていただきたく、ご健康をお祈りいたします。